裁判−横浜地方裁判所−

 1997年(平成9)12月8日に2798名で横浜地裁に提訴し、 追って1998年(平成10)2月23日に642名の追加提訴、そして同年4月27日に最終追加提訴者の1607名を加え、総原告数 5047名で裁判は始まりました。
2002年1月23日に結審し、2002年10月16日画期的判決が出ました。
被告の国が控訴(判決を不服として高等裁判所へ申し立てる)したため
今後は、東京高等裁判所で審理されることに・・・。→高裁

       公 判 の 概 略


第1回公判
1998年 3月16日 弁護団々長・弁護団事務局長の意見陳述、さらに横田基地・嘉手納基地から応援陳述、そして原告陳述として原告団々長・主婦代表・高校生・福祉の現場から裁判長に訴えました。
第2回公判 1998年 6月29日 3回に及ぶ提訴者を5047名併合審理することに決定。小学校教諭が意見陳述被告(国)は反論の準備書面を提出。
第3回公判 1998年 7月27日 被告が原告の準備書面への反論。原告の被害が共通していない、危険への接近、基地の公共性など性懲りもなく展開されました。
第4回公判 1998年 9月28日 詳細な陳述書を327名分提出。
勤労者の被害状況についてなど明確になるよし。相変わらず3回公判と同じような被告の反論が続く。過去3年からの原告居住状況一覧も提出。
第5回公判 1998年11月 2日 環境基準について、被告は「高度の公共性」のゆえに騒音の違法についての受忍限度とは関わりがないと主張するが、原告側は嘉手納判決のように環境基準値は受忍限度の極めて重要な尺度となると反論した。また公共性について被告は具体的主張しない。抽象的公共性の主張では議論にならない、と強く弁論した。
 また被告から全員の陳述書提出の要求があったが、アンケート方式の簡易陳述書で対応すると答えた。
第6回公判 1998年12月 7日 原告個々の被害状況を明らかにせよ。という要求があったが、相変わらず3回公判と同じような被告の反論が続く。「就労・病人などで、被害を受けている時間帯に差がある、被害が共通していない。」等々。
第7回公判 1999年 1月25日 新年明けて初めての公判でした。原告団は、簡易陳述書(アンケート方式)の提出をしました。
第8回公判 1999年 3月1日 勤め人原告の共通被害除外論(被告国の主張)について、原告、被告双方から議論の応酬があり、裁判所から今後の訴訟進行について調整会議があった。原告団は、次回から本人尋問に入れと要求しました。
第9回公判 1999年 5月10日 主に主張認否について。原告弁護団から原告証人の申請。
次回第10回公判より9回にわたり本人尋問を行うことを決定しました。8月24日には現地での裁判所検証を行うことも決定。
第10回公判 1999年6月14日 原告本人主尋問 4人(幼稚園園長・市役所職員・主婦・退職者)
幼稚園園長は「園児は室内だけでなく、園庭で遊戯をしたりするため、窓はしめきりにはできない。艦載機などが上空を飛ぶと子供達は両手で耳を押さえて身をすくめる。歌をうたっている最中にも騒音で中断されるなど、子供達の集中力が続かなくなる」と、教育環境にも深刻な被害が生じていることを訴えた。
主婦も「勤務先の結婚式場で神経を使って仕事を終えても、夜の騒音で眠れない」と、NLPの被害もいまだに深刻なことを主張した。
第11回公判 1999年7月12日 国による原告本人反対尋問 4人(幼稚園園長・市役所職員・主婦・退職者)
原告の簡易陳述書、本陳述書、主尋問調書に基づき危険への接近、賠償減額理由(例:勤め人は昼間いないから被害が少ないなど)、空母入港時と無空母時期の爆音被害の差、防音工事の効果等を立証しようとする反対尋問であった。特徴的なことは、裁判長、陪席裁判官が「最近2週間についての爆音の程度について」尋問した。それらについて、4人の原告は適切な返答をしていた。国側も裁判官も爆音の本当の傷みへの理解なしの尋問であった。そのため、傍聴原告は騒然となり、裁判長から2度ほど制止された。なお、原告代理人から「Nightの時間(NLPのN)は何時から何時を指すのかという指摘を受け、国の代理人は答えられず、「NLPの通告時間がNightです」と逃げた。
第12回公判 1999年9月27日 原告本人(主・反対)尋問 2人(専業主婦・病院院長)
専業主婦は「遠方の友人と電話で話している最中に何度も爆音で中断させられた。」「息子は、夜遅い仕事で午前中が睡眠時間だが、爆音で起こされ、十分な睡眠がとれていない。」などと、訴えた。国側の前回と同じ様な反対尋問に適切な返答をした。また、病院院長は、「病気を見極めるのは聴診器を当てた最初の音でわかるはずが爆音で聞き取りにくい。」「問診が一番大事なのに爆音でとぎれてしまい最初から聞くことがある。3人診られるところを2人しか診れず、患者さんに迷惑がかかっている。」「救急病院なので救急の電話もよくかかってくるが爆音で何度も聞き返し、何のための救急病院だ!」などと切実に訴え、国側は、たじたじ。反対尋問ができず、次回に行う・・・という一幕も。
第13回公判 1999年10月27日 原告本人(主・反対)尋問 1人(専業主婦)
最大の被害は家族のコミニケーションが壊されることである、と主張。弁護士の夫と子供(高校、中学、小学、幼児)と家族が多いのでふだんの生活は、別々になることがあり、そのため、せめてみんなが揃ったときの家族団らんは様々な意味で貴重だ。これに対し、反対尋問は、通り一遍の内容であった。
第14回公判 1999年11月24日 原告本人(主・反対)尋問 2人(嘱託勤め人・学校教員)
嘱託勤め人は基地滑走路南端4q 75w値の爆音被害の実態を、ジェット機だけでなく自衛隊機の被害も大きいこと、家族の団らん、睡眠妨害などの実態を、自分の記録に基づき主張。また、学校教員は子供(幼児)を保育園に送り、夫婦共稼ぎの生活状況の中で、大切な子供達との会話の途絶え、爆音におびえる子供達の姿、学校教員としての教育への被害実態を自分の日記をもとに強く証言した。
国側が75w値は除外しようしていることに対し、主張は75w地域であっても爆音被害は極めて大きいことを訴える立場で行われた。
第15回公判 1999年12月15日 原告本人反対尋問(第12回公判の分病院院長)
 50分余りも、原告の転居や子供の転居、開院した経過など危険接近 への理論立証が執拗に行われた。傍聴原告は尋問内容に関係ないとヤジる場面 もあった。最後に原告意見として、「危険(基地)設置者の国が、危険の存在を 一般住民に何ら告知しないでおいて、今さら危険接近への理論は 盗人猛々しい」 との主旨を述べた。
第16回公判 2000年2月9日 2/8までの立証、書面の整理とこれからの立証予定の弁論。
1.被告国側の勤め人論、危険接近論の立証予定について原告弁護団反論。
2.純粋75W値内の原告宅現場検証について合意(日時未定)
第17回公判 2000年3月1日 1.危険接近排除のアンケート式陳述書書式、被告代理人抗弁、裁判官会議の末確定。
2.裁判官、被告代理人のW値理解不足の原告代理人福田弁護士の弁論。
3.6月の公判日程決定。
第18回公判 2000年4月17日
  1. 原告代理人による「危険接近論」弁論−被告国、追って文書で反論。
  2. 原告弁護団の立証に関する進行意見−次期進行協議(5/17)で検討
  3. 原告個人別陳述書の最終案提示−裁判所、被告国の意見徴収の上、4/24弁護団会議で確定。
  4. NLP実施時における証拠保全実施要項提示−確定。
  5. 5/17次回公判「原告本人尋問1人」「進行協議」、7/24次々回公判「大和市企画渉外部長の自治体証人尋問」
第19回公判 2000年5月17日 原告本人(主・反対)尋問(バス運転手)
 転居事情(85w→75w→80工)中心の尋問で中野弁護士は、そのやむを得ない事情の立証に努めた。また、国側も危険接近を立証しようとする反対尋問をした。
そのあと、進行協議
第20回公判 2000年6月19日
  1. 原告本人(主・反対)尋問(在宅勤務・市職員)                       
     在宅勤務者(着物デザイン、和裁)は、家で仕事をする者の被害実態を中心に訴えた。デザインをイメージしているときや反物を裁断するとき等に飛ばれると集中力が欠け、余分な時間がかかるという実態を訴えた。
     市職員は、同じコンター内転居についての尋問が中心で、その理由を、「妻の勤務上」「自然の残っている場所」「基地の真西から北西になるから少しは爆音が和らぐ」などと事情を説明。しかし、実際に爆音は変わらないと訴えた。
                             
  2. NLP時の夜間実施検証を裁判所が採用(時期は未定)
  3. 6市長(大和・綾瀬・海老名・座間・相模原・藤沢市)の証人申請
第21回公判 2000年7月24日 大和市企画渉外部長が証人として出廷。
  • 厚木基地の概要を証拠として提出した「大和市と厚木基地」に基づき説明。
  • 厚木基地の被害と大和市の対応、対策。
  • 最近の爆音被害と大和市の対応及び意見。
  • NLPの硫黄島移転の経緯と同時平行や全く使用されていない現状。
などを証言した。「米側の姿勢は、一向に変わらない。」と憤りをあらわにした。
第22回公判 2000年9月18日 前回の大和市企画渉外部長による証人尋問の被告国側反対尋問

 被告国側は”周辺整備法”4条−防音工事−、5条−移転−等を持ち出し、国の対策を裁判長にさりげなくアピール、できる限りのことをやってると立証しようとしていた。
 「厚木飛行場周辺の航空機の騒音軽減措置」の効果について証人は、「抜本的に改正し改善して欲しい。都市化の中の基地は好ましくない。」と答えた。
 原告弁護団がNLPの現状について質問すると、「1991年頃からは格段に減少したが、昼間の訓練等が増強されている。9月5日から8日までの通告のうち9月6日は激烈に繰り返され、70数件の苦情電話が寄せられた。今のところ民生安定に寄与する方法がない。」と答えた。
第23回公判 2000年10月18日
  1. 原告住民票(大和市内分)を提出。
  2. 原告個人別陳述書(現在弁護団が原告宅に電話聞き取りにて作成中→原告の方へ)の早期提出依頼(裁判長から)。被告国側は危険接近該当原告の中から原告本人尋問者をピックアップし来年1月以降提出。
  3. 原告本人尋問申請(3人)
第24回公判 2000年11月13日
  1. 原告本人主尋問(862日間、外出等で家を離れた時間を除き連日24時間自宅(主)で目撃した軍用機を全て記録し続けたデータから)
    • 平成10年6月23日〜平成12年10月31日(862日)の間に目撃した総機数に始まり、
    • 「艦載機による爆音被害の状況」→空母がいるとき・通常訓練・ NLPの実施日数・NLP以外の夜間訓練・基地開放日のデモフライト・昨年と今年の延飛行機数の比較(昨年は8,036機で今年はすでに12,613機)
    • 「海上自衛隊による爆音被害の状況」→P−3Cの連続離発着訓練・P−3Cの早朝連続離発着訓練・P−3Cの旋回飛行・自衛隊機のNLP的夜間連続離発着訓練の状況
    • 深夜(23時から5時)の飛行状況
    • 防音工事にかかわる問題点→深夜のプロペラ機の飛行で起こされる
    等々、他にも資料9種類を提示しての、ぬかりのない証言をした。
第25回公判 2000年12月20日
  1. 原告本人反対尋問(前回第24回の分)
    国側の反対尋問は30年以上も前の職業、家の購入の経緯など意味の分からない質問に終始、傍聴者の失笑を買った。
  2. 原告本人主・反対尋問(爆同委員長として)  続いて行われた爆同委員長の本人尋問では40年間に渡る爆音被害を解消するための運動、第一次訴訟を起こした時の経緯、とりわけ「静かな普通の生活をしたい」という思いを整然と論理的に訴え、裁判官に訴訟の意義をアピールした。引き続き行われた反対尋問は、1次訴訟時代のことを盛んに質問し、国側の反論の主旨が全くなかった。
以上、2人とも国の反対尋問に逆にこちらの正当性を言及した証言となった。
第26回公判 2001年2月21日
  1. 裁判所が被告国に対しこれからの立証計画はどうなっているのか、と執したのに対し国はもたもたし明解な回答ができなかった。
  2. 原告弁護団は、大和北1q・2q・3qの3地点と、南1qの1地点にプラス東側の測定ポイント1、計5カ所の測定データ(H10.11.12)と、平成3〜12年の騒音測定並びにNLP関係のデータと苦情件数の推移の具体的データを出した。そして厚木基地による爆音の実態は緩和されるどころかむしろこの2年間のデータから激化の方向にあると弁論した。
  3. 原告弁護団は、大和以外の陳述書で現在までに取れているものを提出。
第27回公判 2001年3月21日 原告弁護団から大和市内で整理済の陳述書を提出。
後は進行協議のようなもの。
第28回公判 2001年4月23日
  1. 次回5月16日の公判で75W値地域原告の本人尋問(主・反対)を行うことを決定。録音テープの裁判所提出は拒まないというが、原告弁護団は録音検証を強く要請する予定。
  2. 6月18日の公判では、被告国側から小畑敏氏の証人尋問(主・反対)を行う。
  3. 被告国側は、危険接近の本人尋問12人を申請。
  4. 原告弁護団から大和市内で整理済の陳述書を提出。
第29回公判 2001年5月16日 原告本人主・反対尋問(75W値地域)
居を構えた理由や基地の存在について証言した後、実際に行われた2月の爆音測定・8月の爆音測定と録音時の状況を説明。裁判長にも丁寧、誠実な対応が伝わったと思われる。反対尋問では相変わらず「何故原告になったのか」との質問。さらに爆音の程度を根ほり葉ほり聞いてきた。特に昨年8月の測定時の状況について聞かれると「データを取ったときは通常と比べるとひどくもなかった静かでもなかった。普通に感じる爆音の状況下であった」と正確に答えた。
第30回公判 2001年6月18日 横浜防衛施設局施設対策第4(障害防止・防音工事・補償移転)課長による国側の証人尋問・反対尋問
国側証人は、生活環境整備法で厚木基地周辺の防音対策は手厚くやっている、と証言していたが、特に防音工事の効果について原告弁護団から質問されると、工事後の計画防音量が未測定で防音効果の実証が証言できずWECPNLの基地摘要も曖昧な証言にとどまった。
第31回公判 2001年7月11日 進行協議のようなもの
  1. 被告国が申請分の原告本人尋問11名について、補充陳述書を出す予定であると答弁。
  2. 75W値地域の現場検証について原告弁護団、被告国、裁判所がそれぞれ意見を出した。
  3. 被告国が主張するコンターについて
    • 被告国「民間空港方式のWECPNL算定した場合との比較を主張する」原告弁護団「累積度数方式のWECPNLが、民間空港に適用されるWECPNLとうるささ程度が同様であることは、国側証人が前回の公判で述べているではないかの旨を強く反論。」
    • 被告国「(NLPの日数が減ったことにより)夜のみの場合のコンターを主張する」原告弁護団「(被害は1日中受けているので)その不当性はいうまでもない」
  4. 裁判長、突如として「うるささが減らない旨、自治体等が述べるが、国側は何か方法がないのか。何か努力している中身があるか。」被告国「自分たちは一介の代理人であり答えられない。」傍聴席は喝采。
  5. 結審の具体的時期の意見交換
第32回公判 2001年9月12日 進行協議のようなもの
  1. 結審は来年1月に決定。日にちは現在裁判所・原告弁護団・被告代理人の日程を調整中。
  2. 12月15日までに原告・被告共に書証類の提出を完了すること。
    • その中で特に原告団からは残りの陳述書(約500枚)を出すこと。
第33回公判 2001年10月17日 被告国から、原告居住地認否一覧表(大和市以外)と本人尋問申請書(16人)が提出される。
原告死亡者の継承手続きについては、結審後の処理でよい。
結審日は1月16日か23日になる。
第34回公判 2001年11月21日
第35回公判 2001年12月19日 被告国は原告側が以前提出したコンター地図の線引きが間違っていることを指摘。年内までに間違っている箇所を提出することに。
1月23日結審の進め方。
第36回公判
(結審)
2002年1月23日
  1. 原告2名が意見陳述。
    1. 大和市内で32年間経師屋を営む男性が、「一番つらいのはお客さんから電話がかかってきたとき爆音で話し声が聞き取れないことです。仕事が取れないこともあります。」と商売に影響があることを訴えた。
    2. 相模原市に住む子育て中の主婦は、「子供が爆音でおびえ、怖がって私から離れない。学習中に爆音で集中力が乱れる」と子供への精神的・身体的影響の不安を述べた。
  2. 横田、小松、嘉手納基地訴訟の原告代理人が「75W値地域の原告の損害賠償を認めていないのは厚木だけだ。」と応援弁論。
  3. 原告弁護団14人が最後の陳述
    1. 岡部弁護士→環境基準と受忍限度について
    2. 福田弁護士→W値(うるささ指数)の評価尺度としての意味
    3. 鈴木弁護士→騒音被害の原理と現在の理論水準
    4. 井上弁護士→原告らの陳述に見られる被害の深刻性
    5. 関守弁護士→「生活パターン分類」のおかしさ
    6. 中野弁護士→第1・第2次訴訟において示された判断
    7. 茆原弁護士→本件侵害行為の公共性の欠如
    8. 林戸弁護士→自治体の表明やテレビ報道に見られる侵害行為への強い非難
    9. 浜田弁護士→新聞報道等に見られる解決しない被害状況と市民らの怒りの声
    10. 野村弁護士→本件将来請求の持つ重要性
    11. 石黒弁護士→住宅防音工事について
    12. 中村弁護士→いわゆる危険への接近の主張について
    13. 佐賀弁護士→危険接近論に個々の事情を一覧にまとめ提出し補足
    14. 大倉弁護団長→本件請求にこめられた原告らの思い
  4. 被告国側は陳述せず、最終準備書面を提出した。