第五次厚木基地爆音訴訟

厚木基地の概要

厚木基地の概要

(横浜防衛施設局資料提供)

使用形態 米海軍と海上自衛隊との共同使用
名称 厚木海軍飛行場(FAC3083)
所在地等 大和市上草柳、下草柳、福田、本蓼川 綾瀬市深谷、蓼川、本蓼川
標高 62m
面積 5,068,806㎡
内訳:
国有地5,064,306㎡
市有地20㎡
民有地 4,480㎡
(綾瀬市域3,946,688㎡・   大和市域1,121,000㎡・海老名市域1,102㎡)
このうち海老名市域1,102㎡を米軍が2017年6月30日国に返還
主な施設 滑走路:延長2,438m×幅45m
オーバーラン:南北各300m
誘導路:延長6,764m×幅22m
建物:
格納庫施設、管制塔、オペレーション施設、事務所施設、住宅施設、倉庫施設、娯楽施設、貯油施設、エンジン試験場、ゴルフ場、射撃場、弾薬庫、GCA*、ILS**注

  • GCA:
    地上誘導着陸方式 視界不良のとき地上レーダー(空港監視レーダー、及び精測進入レーダー)により、進入開始から接地点までの航空機の動きを監視し、無線により適切な経路を指示し、着陸させる方式で、このための装置。
  • ILS:
    計器着陸装置 航空機が計器飛行状態で滑走路に正確に進入、着陸できるように、地上から誘導電波を発射し、着陸させる装置。
米海軍

第五空母航空団(CVW-5)(ロナルド・レーガン)

1.戦闘攻撃飛行隊
部隊名 使用機種  スーパーホーネット
VFA-115 Eagles F/A-18E
VFA-195 Dam Busters F/A-18E
VFA-27  Royal Maces F/A-18E
VFA-102 Diamond Backs F/A-18F
2.戦術電子戦飛行隊
部隊名 VAQ-141 Shadow hawks
使用機種 EA18G グラウラー
3.空中早期警戒飛行隊
部隊名 VAW-125タイガーテイルズ
使用機種 E-2D
4.第51軽対潜ヘリコプター飛行隊 第3分遣隊
部隊名 HSL-51 Det.3 Warlords
使用機種 SH-60B シーホーク
5.第30艦隊後方支援飛行隊 第5分遣隊
部隊名 VRC-30 Det.5 Providers
使用機種 C-2A グレイハウンド
6.第77海洋攻撃ヘリコプター飛行隊
部隊名 セイバーホークス
使用機種 MH60R
7.第12海上戦闘ヘリコプター飛行隊
部隊名 ゴールデンファルコンズ
使用機種 MH60S

※厚木航空基地所属の第51軽対潜ヘリ飛行隊HSL-51はSH60Bを分遣隊単位で空母へ派遣している。
2013年、MH-60を受領したHSL-51は第51海上攻撃ヘリコプター飛行隊(HSM-51)へと改名している。

海上自衛隊
部隊名 使用機
第4航空群司令部-第3航空隊 P-1
第51航空隊 P-3C(訓練用)
第61航空隊 C-130R  LC90
第71航空隊(厚木救難隊機) US-1A   US-2

厚木基地の成り立ち

1914年から1918年にかけて争われた第一次世界大戦後、日本は海軍戦力増強の一環として、海軍横須賀鎮守府に近い神奈川県高座郡綾瀬村・大和村・渋谷村にまたがる広い土地に飛行場を造ることにした。
軍は、土地所有者320人を集め、海軍施設をこの地域に作るので、土地を国に売るように、代金は後日役場から連絡する。直ちに測量に入るので作物は撤去するようにと告げ、驚く土地所有者をしり目に土地の強制収容が行われた。
1938年に旧海軍厚木飛行場の建設が開始された。1941年6月に海軍厚木飛行場は完成し、相模野航空隊という戦闘機の整備要員育成のための部隊がおかれた。

作られたのは飛行場だけではなく、高座海軍工廠も建設された。1942年に海軍航空兵器製造工場建設が計画され、座間東原を中心とした約100haの土地が買収された。急ピッチで建設がすすめられ、翌1943年には完成した。

相模鉄道さがみ野駅北側の公団住宅一帯が高座海軍工廠跡地であり、ここで作られた戦闘機が引き込み線で厚木飛行場に運ばれたと言う。駅前の桜並木は試験用滑走路だったといわれている。

その当時の日本の状況は、1937年7月7日に中国の盧溝橋で中国軍と軍事衝突を起こし、これをきっかけとして日本は中国との全面的な長期戦争にのめりこんでいった。この戦争は止まらず、1941年12月8日には、ついに第2次世界大戦へと突入する。厚木基地は軍にとって同時期に作られた調布、柏、松戸、成増飛行場と共に首都防衛拠点の重要な基地だった。

1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾することにより日本の敗戦となり、第二次世界大戦は終了し、厚木基地は1945年9月2日、連合軍(米軍)に接収された。しばらくの間厚木基地は米軍のキャンプ座間の野外物資集積場とされ、米陸軍の司令部も置かれていた。ところが1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発し、厚木基地は米軍の後方支援基地として重要性が増し、米陸軍から米海軍に移管され、同年12月米海軍第7艦隊艦載機の修理と補給及び偵察業務を行う米海軍厚木航空基地としてよみがえった。

1953年の朝鮮戦争休戦後も米軍は厚木基地を使用し、充実化を図った。朝鮮戦争ではジェット戦闘機が使用され、ソ連製のMiG-15と米国のF-84との史上初のジェット機同士による空中戦が繰り広げられたが、米海軍もジェット機化に対応するため厚木基地の滑走路の延長に取り組んだ。1958年2月に滑走路を7000フィート(約2134m)から8000フィート(約2438m)に延長、1960年6月に滑走路のかさ上げ完成、1965年8月には滑走路の両端に安全地帯の拡張工事が完成し、厚木基地の姿は現在のものとほぼ同様になった。

1971年には米軍の海外基地の再編計画が発表され、大きな居住部隊や飛行部隊が他の基地に移駐し、これに伴い飛行場管理権を含む飛行場施設の大部分が日本側に返還され、基地の一部が海上自衛隊に移管、米海軍は「厚木航空施設」として、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、日米が共同使用する基地となった。

その後1973年10月、米海軍第七艦隊所属空母ミッドウェイが横須賀を母港化して以来、第五空母航空団(CVW5)の司令部が設置され、空母航空部隊の後方支援基地としての役割を担っており、1991年9月に空母ミッドウェイから空母インディペンデンス、1998年8月に空母キティホーク、2008年9月に原子力空母ジョージ・ワシントン、2015年10月に原子力空母ロナルド・レーガンへと交替したが、厚木基地の役割には変化がなく、現在に至っている。